RED EARTH
16.キアラ・フィーネ
キアラの言葉に応えはない。
あれ…と思って、視線を下ろすと、白い少年は、いつの間にか目を閉じて眠っていた。涼やかなせせらぎの音に混じって、安らかな息の音が聞こえた。乾きはじめた細い髪が風に吹かれてふよふよと踊っていた。こっちだって疲れているのに、全く暢気なものだ。
黙っておとなしくしていれば、かわいいと表現してもいいかもしれない。だが、弟にはしたくないタイプだ。こんな傲岸不遜で小賢しいヤツが弟だったら、1日1回問答無用ではり倒すことを日課にしていることだろう。
一瞬、叩き起こしてやろうかという衝動に駆られた。かろうじて思い直す。態度はものすごく偉そうで、半端なく強いが、多分、自分よりも年下だろう。悔し紛れにそんなことをするのは、大人げない気がした。それに、見知らぬ自分を助けてくれた。彼が何者であっても、それは感謝すべきことだ。
敵の気配は無くなっていた。さっきの連中で最後だったのだろうか。助かった…と思うと、緊張の糸が一気に緩んだ。戦闘時に受けた肩の傷が、急に痛み始めた。それだけではない。体中の至る所が悲鳴を上げている。湿った靴の中の足も痛いし、関節という関節が錆びた蝶番のように軋んでいるような気がするし、筋肉も張って熱を持っている。そのうえ、お腹も空いていた。ここ何日もまともなものを口に入れていない。あの女が残していった上着の中から見つかった、わずかな菓子類と森で見つけた果物で何とか食いつないで歩いてきた。完全に栄養が不足している。何もかもが足りない。運良く水分だけでも充分に取ることが出来たのが、唯一の救いだろう。それもなかったら、確実に途中で動けなくなっていたに違いない。
ふと、さっき死んだ軍竜のことが思い出された。
あれを喰えないものだろうか。強烈な匂いはしていたが、肉の部分はたっぷりとありそうだった。この際、肉の臭みがどうとか固いとか贅沢なことは言う気はない。腹を満たしてくれるものには違いない。でも、血塗れの屍に1人で近づくのは真っ平だ。首を飛ばされている。絶対に動くことはない。あれはもう生き物ではない。「もの」だ。しかも肉の塊だ。むしろ食物だ。そうは思っても、それを怖くて不快なものだと感じている。視界に入れるのもおぞましいと思う。死体を恐いと思うのは、自分の死を連想させるからだろう。極めて危険な状態、究極の非日常へと引きずり込む布石だ。自分もこうなると想像を巡らすことで、潜在的な恐怖を引き出すのだろう。畑に吊された烏の屍がいい例だ。あれを見て、烏も自分がこうなる…ということを感じて、逃げるのではないかと思う。すると、烏にもヒトと同じような想像力があるんだろうか?そうでなければ、仲間の死体になど反応しないとはずだ。この辺は、烏じゃないから分からない。
本能的な恐怖ではないだろう。生きるための糧をなぜ怖いと思う?理性だろうか。自制心だろうか。この食欲を必死で止めようとしている何かがある。
でも、やっぱり、お腹が空いた。
食べるものが欲しい。
キアラは意を決して立ち上がった。何が何でも生き延びる。そのためには、うだうだ考えてないで、食べなくちゃ。
靴の下で、小石が音を立てた。足の裏がずきんと痛んだ。遠くで鳥の声がした。声は何度か聞いたが、何という名前の鳥なのか、キアラは知らない。
「どこか行くのか?」
立ち上がった少女を見上げて、ヒサキが問うた。短い仮眠から目を覚ましたらしい。子供らしくない鋭い眼光に睨まれて、キアラは息をのんだ。くすんだ鈍い青。宝石のような華やかさも透明感もない。重く
冥い色だ。助けてくれたけど、こいつは危険だと思う。これは本能的に感じるものだ。
「さ……さっきの湖へ…」
「ふーん。忘れ物でもしたのか?」
そう言いながら、彼は気持ちよさそうに伸びをした。投げ出していた足をあぐらに組んで、額にかかる前髪をうっとおしそうにかき上げ、欠伸をしながら目をこする。何気ない一連の動作にも、綱渡りのような緊張感がある。目尻がちょっとつり上がった相貌のせいか、どこか猫を思わせる。
「え……えと、あの軍竜の肉とか、食べれないかなーとか思って……」
一緒に来てくれることを微かに期待して、キアラは正直に白状した。
「あんなもん、喰うもんじゃないぞ」
「そ…そりゃ、ゲテモノだけどさ……」
弁解するように言ったが、我ながら語尾が弱い。
「残念ながら、もう炭の塊に変わってるよ」
「えー?!そ…そんな…」
何と言うことだ。絶望的だ。せっかくの食べるものがなくなってしまった。
「でも、どうして?あなた、何かしたの?」
「何にも。ヤツらは、腹の中に発火用の生体燃料を溜めてるだろ?ヤツらが死ぬと、その物質の作用で、腹の内側から炭化してしまうんだ。
竜()や他の幻獣のブレスは魔法だけど、畜竜のは化学反応による発火現象だからな」
「はぁ…」
とりあえず頷いたが、頭の中は、大きな絶望感と微かな安堵感がグルグルと渦巻いていた。空腹で目が回りそうだ。一体いつまで我慢すればいいのだろう。一度、希望が見えたものだから、この失望感は余計に大きい。
「それに、あれは人の手が加わった
“創られた”生き物()なんだ。ごく新しい生き物と言ってもいい。それを喰らうことによって、他の生物がどういう影響を受けるかは、全く未知なんだ。猛毒かもしれないし、生体や遺伝子の変容を促すような作用を持っているかもしれない。もの凄く美味いのかもしれないけど、喰う気にはならんな……。まあ、ほっといても炭化するけど、野生の獣が食べたりしないように、死体はきっちり骨の髄まで炭にして処分しよう…てことになってる。それでも、完全に影響を取り除くことは不可能だろうな。ファースフィアの生態系自体が、非常に未熟で不安定だからね、畜竜の影響ごとき、なんてことはないのかもしれないけど」
「ふーん……」
とにかく諦めるしかなさそうだった。キアラは、げんなりした思いで、再び石に腰を下ろした。
「ここも、森と言うには、まだまだ若いな」
そう言って、少年はひょいと立ち上がった。生乾きの上着を、気落ちしてぐったりしているキアラに投げ渡し、ブーツからナイフのケースを外す。そして、靴を履いたままで、渓流へ踏み込んでいった。深さは彼の膝くらいまであるようだった。ゆっくりとだが、危なげもなく歩いていく。不安定に積み重なった石や速い流れに足を取られるような様子もない。
「何する気…?まさか、魚でも捕ろうっていうの?」
「そうだよ。腹が減ってるんだろ?」
彼は、振り返ってにこりと笑った。
「無理よ。そう簡単にいくわけ無いでしょう」
キアラの言葉なんか、耳に入っていない。ヒサキは真剣な表情で、体を屈めて大きめな石の下に手を突っ込んでいた。何カ所か同じことを繰り返していたが、一向に成果は上がらない。それも、当然だろう。すばしっこい川魚を手づかみでなんか、捕まえられるわけがない。世の中、そこまで甘くはない。キアラだって、何度か試してみたのだ。泳いでいる姿は見える。夕暮れ時に飛んでいる羽虫を狙って跳ね上がるのも見える。カワセミの見事なハンティングも目撃した。それなのに、キアラの手には、指の先にすら掠らない。なんか偉そうに小難しい講釈をぶっていたが、所詮は子供だ。キアラは、ため息をついた。
初夏の日も、だいぶ、傾きはじめていた。ブレザーの中に入っていた時計は、午後3時をさしている。もっとも、この時計が正確なのかどうかは定かではない。朝昼晩がだいたい分かれば、細かい時刻など然したる問題ではない。
少女は、頬杖をついたまま、うとうととし始めていた。
ゆらりゆらりと、目の前を銀の魚が泳いでいく。美味しそう。捕まえようと手を伸ばすが、するりと指の先をすり抜けて……。
顎が手の上から滑り落ちて、がくんと衝撃が走った。眠りと覚醒の隙間のぼんやりした視界に何かが飛んでくる。あ…と思ったときには、その物体はすでに顔のど真ん中に命中している。
冷たいぬめぬめした肌触りの正体不明の何か。しかも、膝の上で動いている。
「きゃあぁあぁああ!」
キアラは、悲鳴を上げて、飛び上がった。
川の中で、ヒサキが楽しそうに笑っている。口惜しい。彼の仕業か。
落ち着いて足元を見ると、そこには10センチばかりの赤っぽい鱗の細長い魚が1匹。石の間で、苦しげにエラを上下させて、横たわっていた。丸い目をキアラの方に向けて、助けを求めているようにも見えた。キアラは、しゃがみ込んでそっと魚に手を伸ばした。ぐったりとしていたはずなのに、キアラの手が近づくと、来るなとばかりに、体全体をバネにして、大きく跳ねて、逃げる。再び、少女は悲鳴を上げた。
「逃がすなよ!逃がしたら、お前の分、減らす!」
「えーー!」
冗談じゃない。食いっぱぐれてたまるもんか。キアラは、必死で岸に投げ上げられた魚を掴んだ。濡れた魚は手の中で暴れて思うように掴めない。自分の両手にすっぽりと収まってしまうほどの小さな生き物なのに、こんなにも強い力を持っているものなのか。握力だけでは、その動きを封じることは出来なかった。自分と同じ、死にたくないという力なのだろうか。
「上から手を被せるようにして掴むんだ。どうせ喰うんだ、殺してもいい」
たった1匹の魚相手に四苦八苦している少女に向かって、ヒサキが怒鳴った。それと同時にもう1匹、さらに魚が飛んできた。
それから、日が陰るまでの間に、ヒサキは5匹ほどの魚を捕まえた。詳しくは分からないが、模様などから見て、2種類違う種類のものがいるようだった。
「イダばっかりだな。この時期、あんまり美味い魚じゃない」
自分の漁果を見下ろして、彼はどこか不満げに呟いた。
「熊か…あんたは…」
「失礼な。オレはれっきとした市域出身の
都会派少年(だ」
「どこの都会派が、手づかみで魚を捕まえるんだ!」
変なヤツだ。
ツッコミどころは満載だが、とにかく、食料は手に入った。
「でも、どうやって食べるの?」
「もちろん焼いて。川魚には寄生虫がいるからな。生でも喰えなくはないが、運が悪いと酷い目にあうぞ。ま、山女にはそんなもん関係ないか」
「……好きでこんなことやってるわけじゃないわよ!」
「さて、薪を探すぞー」
何だか妙に楽しそうなのは気のせいだろうか。キアラにとっては生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、彼にとっては遊びの一環に過ぎないのかもしれない。
火を
熾()すのは、
火霊(を呼べば簡単だ。集めてきた枯れ枝にサラマンダの炎が燃え移り、ぱちぱちと音を立てた。石で囲んだたき火の中で、小さな火トカゲがしっぽを丸めて居座っている。火の脇に枯れ枝に刺した魚を並べて、後は焼けるのを待つだけだ。やっとの事で、待望の食事にありつける。
すぐにいい匂いが漂った。小さな魚だから火が通るのも早い。ヒサキが、ほどよく焦げた魚の串を差し出してくれた。歯で骨から身を剥がすと、独特の臭みが鼻についた。味は淡泊でほとんど無いと言ってもいい。水分が少ない身を噛んでいるうちに、だんだんと味が出てくる。ヒサキは、あまり美味い魚ではない…と言っていたが、充分に美味しいと思った。
「あなたなら、獣でも仕留められそうね」
「出来なくはないけど、解体とか後始末がめんどくさいだろうが。追われる身で、狩りをするのは現実的じゃないと思う。特に、さっきの連中、
森林特殊兵()だろう?目も鼻も獣並みに利く連中だ。匂いとかゴミで居場所が丸バレになる。本当は、ここでこんなことをしてるのも充分にヤバイんだけどな」
彼らは、結局どうなったのだろう?さすがにあの軍竜が死んだのは確実だろうが、他の連中にとどめは刺していない。でも、これだけ時間が経って、追って来る気配が無いところをみると、やはり死んだのだろう。
否、殺した。
自分が生き延びるためとはいえ、それは否定できない厳然たる事実だ。
「だったら、何を食べればいいのよ」
「一番いいのは、虫だろう。枯れ木や木の根もとをほじくればいくらでもいるし、洗ってあぶればすぐに喰える」
「……冗談じゃないわ」
「トカゲも大して変わらんと思うが?」
そう言って、少年は意地が悪い笑みを浮かべた。キアラは、3匹目の魚に手を伸ばした。ふと見ると、ヒサキの方は全く魚に手をつけていなかった。
「食べないの?」
「いいよ。全部やる」
「ありがとう…」
ヒサキは、火の中のサラマンダをつついて遊んでいた。枯れ枝でつつかれた火トカゲが怒って口を開けて威嚇する。トカゲが枯れ枝の先に噛み付くと、ぼっと小さな炎が上がり、暮れかけた薄い闇に火の粉が舞う。夕暮れに近づくと、たくさんの虫の声やカエルが鳴く声が聞こえはじめる。鳥の声、木々のざわめき、水のせせらぎ。森の中は決して静かではないが、やかましくもない。それぞれが自分勝手に音を出しているはずなのに、その全てが相応しい音量で、全ての音がうまく調和している。
「お前、よく生きてるな」
呆れと感心が入り混じったような顔で、少年が言った。
「私もそう思うわ」
体中傷だらけであちこち痛む。水で流してくくってはいるけど、髪はぼさぼさだし、服もぼろぼろだ。ふと目に付いた手も土と血で真っ黒だった。顔もどうなっているか自分でも分からない。鏡なんてもう何日も見ていない。きっと、山女と言われても仕方がない容貌になっているに違いない。久しぶりに他者の視線を意識すると、急に恥ずかしくなった。キアラはヒサキから目を逸らして、俯いた。
「お、帰ってきた」
木の枝でサラマンダにちょっかいを出していた少年が、急に空を仰いで立ち上がった。ざわざわと木々が騒ぎ、風が降りてくる。薄い虫の羽を持った人の形をした精霊が、風に乗って漂っていた。エアリエルだ。ヒサキが地図を広げた。その上に、精霊たちが次々と着地し、紙に吸い込まれるように消えていく。そのたびに、地図の上には淡い光の層が積み重なっていった。やがて、地図に格子状の光の層が出来た。のぞき込むと、ある一カ所が赤く光っているのが見えた。そこが、2人の現在地であるようだった。すぐ脇に小さな湖の形が見える。
「ここ?」
「そうだよ」
「うそ……。あんなに歩いたのに……」
ドライグゴッホからは思ったほども離れていない。
「ま、あの
乗竜()を使えば、半日ほどの距離だろうな」
「そんな……」
ショックだった。この数日の苦労は一体何だったのだ?この国から逃れるために、一体どれだけの時間がかかるのだろう?これからどうすればいい?気が遠くなりそうだ。
「地図も読まずに適当なことをするからそうなるんだって」
落ち込んでいるキアラに追い打ちをかけるように、ヒサキが言った。言い返す気力は無かった。
「伝言が届いています」
抑揚のない小さな声が聞こえた。
「発信元、ペザンテ市シンファ・メイフェン。届け先、ヒサキ・シロガネ。メッセージの再生には、本人確認が必要です」
精霊を介した遠隔通信システムだ。夢幻界に登録され、魔法が使える者なら誰でも、郵便と同じように使えるようだが、キアラは未だに利用したことがない。利用するような相手がいなかったというのもあるが。
「シンファから…?これで」
首をひねりながら、ヒサキはポケットから白いカードを取り出した。キアラは目を疑った。ブレザーに入っていたあの女のIDカードと同じものだ。
「承認されました」
声が完璧な発音で告げる。それと同時に、薄暮に粗い3D映像が浮かび上がった。異国風の長い衣服を着た小柄な人物。画像が粗くて、顔立ちまでははっきりとは分からなかった。髪が長くリボンらしきものがついているところを見ると、恐らく少女なのだろう。
「どうやら、無事なようじゃの。近場にいるドラゴンを向かわせておる。しばし、そこで待て」
声は予想通り幼い少女のものだった。老人のようなやけに古風な口調で、一方的にそれだけ喋って、映像は消えた。
「は?」
「もう一度再生しますか?返信しますか?削除しますか?」
「消していい」
「承知致しました」
「何?どういうことなの?」
何だか信じがたいほどに、素敵な報せが聞こえたような気がする。聞き間違いだろうか?そんなことであって欲しくない。キアラはかぶりつくように少年に尋ねた。
「……助けが来る」
どこか放心した様子で、2、3度大きな目を瞬かせて、ヒサキは確かに言った。
それから、数時間後。
すっかり夜も更けた頃に、ドラゴンが2体、本当にやって来た。
2nd Stage Green Earth / Red Earth End
←back next→
Farsphere
Farsphere FURUKI Sayu All rights reserved.